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儒教思想の日本への影響


2015年5月17日
青島日本国総領事  遠山茂


 まずは、「山東社会学シンポジウム-斉魯文化の継承と創造セミナー」の開催にお祝い申し上げますとともに、このセミナーにお招き頂き、発言の機会を頂きましたことに感謝申し上げます。本日は、「儒教思想の日本への影響」とのテーマで講演をさせて頂きます。儒教思想がこれまでの日本の歴史で様々な役割を果たしてきたこと、また、今日においても日本人の精神文化の一部となっていることは、自分自身のこれまでの人生においても実感してきました。このたび、この講演をお引き受けし、この2ヶ月間、様々な資料を参考として本日の講演原稿を作成しましたが、儒教思想が日本の歴史・文化に大きな影響与えてきたことを改めて認識した次第です。とは言うものの、私自身は、専門の学者ではなく、一介の行政官員に過ぎません。報告の内容が極めて不十分かつ浅薄なものである点は、あらかじめご了解頂ければ幸いです。
 それでは、まず、日本の歴史における古代から現代までの儒教の伝来・発展の歴史をおおざっぱにご紹介した後、その主な特徴について幾つかの観点をお話をしたいと思います。


1 概観
【古代】

●日本に儒教が伝わったのは仏教よりも早く、513年、継体天皇の時代に百済より五経博士が渡日して伝えられたとされている。これ以前にも、朝鮮半島から王仁が「論語」及び「千字文」を持って渡来したという伝承もあり、概ね5世紀初めには伝来していたというのが通説である。

 

●6世紀の飛鳥時代では仏教の普及に熱心であった豪族の曽我氏の台頭もあり、飛鳥京(現奈良県)を中心に仏教遺構が多く建設された。一方で一部の為政者は儒教に深く帰依し、例えば、斉明天皇(女性天皇)は、亡夫である欽明天皇の御陵を八角墳(古代中国の政治思想では、八角形が天下発砲の支配者にふさわしいとされていた。)としたり、多武峰に置いた両槻宮とその関連遺構には儒教と陰陽道の影響が強く現れている。

 

●その後、9世紀の平安時代初期においては、天武天皇が発布した律令制にも儒教の影響が見られ、儒教思想は官吏養成に応用され、また国家で研究を行う学問として式部省(現在の「人事部」に相当)が管轄する大学寮(官僚育成機関)において教授された。しかしながら、日本では科挙制度が採用されなかったことから儒教本来の価値が定着しなかったこと、また、この時代は仏教がますます盛んになったことから、儒教はあまり盛んではなかった。

 

【中世】
●朱子学は1199年に入宋した俊芿が儒教の典籍250巻を持ち帰ったのが始まりとされている。以降、渡宋した日本の禅僧、あるいは南宋から訪日した中国の知識人によって広められ、1299年、元より来日した一山一寧がもたらした注釈によって学理が完成したと言われている。14世紀、天台宗の僧玄恵は朱子学に通じ、後醍醐天皇の側近として仕えた。

 

●南北朝時代から室町時代にかけては、臨済宗の禅宗寺院において儒教が研究された。また、15世紀後半、上杉憲実によって再興された足利学校でも儒学の講義が行われた。

【江戸時代】
●江戸時代は日本における儒教の隆盛期である。この時代、儒教は、それまでの仏教の僧侶らの教養から、独立した学問として発展を遂げた。特に朱子学は幕府によって封建支配のための思想として採用された。江戸時代の初期には、朱子学者の林羅山が徳川家康に仕え、以来、林家が大学頭に任ぜられ、幕府の文教政策を統制した。

●陽明学派としては、中江藤樹が一家を構え、その弟子である熊沢蕃山が岡山藩において執政するなど各地に影響を残した。また、陽明学はいわゆる近江商法にその影響があると言われている。江戸時代を通して、武家僧を中心に儒教は日本に定着し、水戸学などにも影響、やがて尊皇攘夷思想に結びついて明治維新への原動力となった。一方、一般民衆においては、学問としての儒教思想はほとんど普及しなかった。

【近代】
●明治時代に入り、1885年に当時の文部卿森有礼によって儒教的な道徳教育を規制する命令が出された。しかし、宮中の保守的な漢学者の影響によって教育勅語など儒教の忠孝思想が取り入れられ、奨励された。

●渋沢栄一は「論語と算盤」を著し、「論語」を拠り所に倫理と利益の両立を掲げる「道徳経済合一論」という理念を提唱し、近代経済と儒教思想の融合を図ったが、広く普及することはなかった。

【現代】
●1945年の終戦後、中国の古典、特に儒教は軍国主義者の倫理教育にも利用されたとの反省から、一時期は学校教育においても姿を消した。ある出版社の入社試験で「韓非子とは誰か」との問題が出たが、正解は極めて少なく「韓国の非行少年」との傑作もあった。
しかし、その後、中国の古典、すなわち「漢文」は高等学校の必須科目として復活し、史書、漢詩など名文が教材とされている。

●また、1960年代後半から、経営者、管理職を中心としたビジネス世界の人々に、戦前とは違った受け取り方で中国の古典が読まれるようになった。西欧の科学的な技法だけではどうして解決できないものがある。その欠けたところを中国古典の「人間学」に求めた。「孔子」もそうした中で関心が高まった。経済発展の中で企業の社会的責任が問われ、資本の理論に修正が求められている現象と無縁ではない。

2 特徴
(1)取捨選択
・日本は、古代から19世紀の明治維新までの長い歴史において幅広い分野で中国文化の影響を受けた。政治制度では律令制、思想・宗教では儒教、中国仏教、文化面では漢字、風俗習慣では、農暦など枚挙にいとまがない。

・他方、古来から、日本はこうした中華文明の全てを受け入れることはなく、日本の国情に合わせて取捨選択し、あるいはある思想を受け入れたものの、自ら修正・発展させたものもある。例えば、政治・社会制度では、日本は科挙、宦官制度を受け入れなかった。また、社会風俗では、女性の纏足も日本では採用されなかった。

・科挙制度を採用しなかった理由については、様々な学説があるようだが、日本の歴史では、①トップの支配者が交代しても、その下の有力な貴族、有力豪族、武士は時代を超えて生き残り、高級官僚の地位を確保してきたこと、②また、中央集権的な体制を基本とした中国の歴代王朝とは異なり、日本では、地方分権・封建体制を基本とする時代が続き、人事面において中央政権による強力な支配システムを採用しなかったことなどが大きな理由と思われる。
・また、宦官制度を採用しなった理由も諸説あるが、日本民族の一部は大陸からの騎馬民族であったとしても、日本では牧畜業は主流ではなく、従って、そもそも、動物に対する去勢術も普及しておらず、ましてや、人に対する去勢は技術がなかったとの説明もなされている。

(2)独自の解釈と修正
①中国の儒教は、同時代の西欧哲学(即ち、ギリシャ哲学)と比較して、抽象的な観念論の議論には熱心ではなく、相対的に人生哲学と人の修養の研究を重視したが、日本の儒学は、中国儒学よりもさらに抽象的な世界観の思考には疎かったとされる。

・例えば、飛鳥時代から奈良・平安時代において、儒教は主として政治思想として受け入れられ、抽象的な世界観の多くは議論されなかった。また、室町時代の後期には、儒教教育機関である足利学校で「易経」が講義されたが、ここでは、儒学の世界観としての易経ではなく、むしろ、占いとしての「易学」であり、その知識の多くは戦における占いとして利用されたと言う。

・江戸時代における朱子学の解釈・発展は日中の様々な違いを最も端的に表している。
例えば、江戸初期における朱子学の大家(鼻祖)である藤原○○は、朱子学の核心である「理気関係」にも言及しているが、多くの場合、「理」を倫理的な「道理」あるいは「義理」と解釈している。もう一人の朱子学者である山崎○○も「学朱子而缪,与朱子共缪,何遗憾之有」と述べており、「性理問題」を日常生活と密接な関わりのある修養問題あるいは人生道路上の問題としてとらえ、形而上学の問題とは見なさなかった。

・なぜ、日本における儒学は抽象的な概念を重視しなかったのであろうか。ある学説によれば、そもそも古代の日本は、中国に比べれば数百年遅れた文明後進国であって、抽象的な思考は未だ発達していなかったとの指摘がなされている。例えば、当時の日本人には、山、川、草、木といった具体的な事物に関する語彙は豊富であったが、これらの総称である「自然」との概念はなかったとされる。

・しかしながら、17世紀以降の江戸時代においても日本の儒学者たちが抽象的な思考を重視しなかったことは、文明度の低さでは説明できない。この点に関して、著名な仏教学者である中村元は、インド、中国及び日本の仏教を比較して、日本人の思惟方式は「非合理主義」的傾向があり、思弁、論理的な思考が欠けていると指摘している。

②江戸時代の朱子学では、君臣関係についても中国との違いが見られる。すなわち、儒教の基本概念である「徳」及び「忠」の解釈の違いである。

・中国の儒教に基づく政治の基本な考え方は、孔子、孟子の時代から「有徳者王」というものであり、この考え方は後の時代になっても変わらなかった。朱熹は「为政以德,
则无为而天下归之」と述べている。すなわち、王となるべきものは「徳」を備えていることが前提条件であり、仮にこれが欠けていれば、「放伐」「革命」が許されるとの考え方が根本にある。

・江戸時代の初期においても、「有徳者王」及び「放伐」との思想は受け入れられており、林羅山は、孟子の「放伐」との考え方に賛成し、「汤武之举非私天下,为在救民耳」と述べている。
・しかしながら、17世紀中期以降、「仁」の思想及び「有徳者王」との思想は徐々に薄くなり、やがて君主に対する絶対的な忠誠、さらには天皇に対する無条件の忠誠に変貌していった。古学派の山鹿素行は君臣の関係について「非以力而成,乃天地自然之仪则」「主君之恶如夏桀殷纣,而下无蔑上知道」と主張している。

(3)儒教と仏教・神道との融合性
・本来、儒教は中国においても他の思想あるいは宗教に対して寛容であり、時には、双方が融合する場合もあったが、こうした傾向は日本において一層顕著である。

・そもそも、日本がようやく文字・思想を持つ「文明国家」として歩み始めたのは、5~6世紀であるが、この時期、中国は既に高度な文明を有する超先進国であり、中国から伝わる様々な思想、社会制度に対して、当時の日本としては、尊敬・憧れがあったのみであり、抵抗があったはずがない。また、当時、日本の古来の宗教は神道であったが、神道は多神教であり、第三者に対して極めて大らかであった。これに加えて、最近の歴史研究では、古代日本における中国大陸・朝鮮半島との人的交流は、想像以上に活発であったと言われている。
・こうした背景の下、江戸時代の儒教においても、多くの儒教学者により他の宗教との融合が主張された。例えば、江戸初期の儒学者である山崎闇齋は、仏教、神道などを幅広く学び、「垂加神道」と称して、神道と儒教の融合を主張した。

 

(4)儒教の積極的な役割と総括
・前述のとおり、儒教は特に江戸時代において盛んとなり、国家として統治体制の構築に大いに活用された。

・江戸幕府は、中央集権体制ではなく、形式的には「幕藩体制」と称する地方分権制であり、各藩の藩主(大名)の下で一定の自治権を有していたが、幕府による統治は極めて巧妙であり、大名が幕府に対して反抗することは極めて難しかった。また、君臣の関係は、「武士道」の基本であったが、絶対的な忠誠が要求された。

・また、国民を「士農工商」の4身分に分け、「士」(武士)の絶対的な支配権を維持した上で、農工商に対しては、与えられた本分を守ることを強く求めた。こうした徳川幕府の基本的な政治制度、道徳規範は秩序の安定を重視する儒教思想が十分に利用されたことは間違いない。

・徳川幕府は、1600年に成立し、1867年までの約240年間続き、中期以降は、地震、干ばつなど自然災害、また、農民一揆が多数発生したが、全体としては、大規模な内乱などは発生せず、平和な時代であった。

・むろん、当時の封建制度、身分制による不平等、男尊女卑と言われる女性蔑視等の思想は、今日の社会において受け入れられる余地は全くなく、徹底して一掃されるべきものである。しかしながら、どの時代、どの国でも何らかの方法で社会の安定が確保されることは重要であること、また、儒教の核心である「仁義礼智」などの価値観は、普遍的なものである。合理主義が核心である西欧思想では解決できない課題があることは明白であり、21世紀においても儒教を含む東洋思想の良い点が継承されていくことは必要であろう。

 

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