青島紡績博物館の訪問
令和7年3月27日
3月21日、斎藤総領事は青島市市北区の紡績博物館を訪問しました。この一帯は、昔の紡績工場(前身は日系の上海紗廟)の跡地を2014年に公園化したもので、シリコンバレーに倣いテキスタイルバレー (中文: 紡績谷) とも呼ばれています。
小さな漁村に過ぎなかった青島が工業都市に変貌するきっかけとなったのが1902年以来の紡績産業であり、1930年代には上海、天津と並び「上青天」と称される国内を代表する紡績都市にまで成長しました。
そしてこれら三都市とも日本企業の存在感が際立っていたのが特徴です。青島には9社の日本企業が集中し、一時期は市内で生産される紡錘の全体量の9割以上を占めるほどだったそうです。その中には、今では自動車業界で世界ブランドとなった豊田の工場も含まれています(同社創設者の豊田佐吉はもともと紡績業から身を起こした人物)。博物館には、当時使われていた豊田製の紡績機械もいくつか展示されています。
その後の時の流れに伴い、紡績産業のブームはコストのより低い南アジアなどに移っているものの、手先の器用さという点では中国への評価が依然として高く、青島にはまだ日本と関係の深い紡績企業が多く存在します。青島の工業黎明期から現代へとつながる日本との関係性に思いを馳せることのできる貴重な空間と言えます。


小さな漁村に過ぎなかった青島が工業都市に変貌するきっかけとなったのが1902年以来の紡績産業であり、1930年代には上海、天津と並び「上青天」と称される国内を代表する紡績都市にまで成長しました。
そしてこれら三都市とも日本企業の存在感が際立っていたのが特徴です。青島には9社の日本企業が集中し、一時期は市内で生産される紡錘の全体量の9割以上を占めるほどだったそうです。その中には、今では自動車業界で世界ブランドとなった豊田の工場も含まれています(同社創設者の豊田佐吉はもともと紡績業から身を起こした人物)。博物館には、当時使われていた豊田製の紡績機械もいくつか展示されています。
その後の時の流れに伴い、紡績産業のブームはコストのより低い南アジアなどに移っているものの、手先の器用さという点では中国への評価が依然として高く、青島にはまだ日本と関係の深い紡績企業が多く存在します。青島の工業黎明期から現代へとつながる日本との関係性に思いを馳せることのできる貴重な空間と言えます。



