平度市の史跡巡り
令和8年4月30日
先日、平度市 (青島市)に出張中の斎藤総領事は、同市内に点在する史跡3か所を見学しました。平度と言えば付け睫毛(世界の70%を生産!)が有名ですが、実は日本とも縁のある史跡がいくつかあるのでご紹介します。
[東岳石遺址]
山東省の石器時代は5段階に分類できますが、その最終段階にあたる岳石文化(紀元前1900年~前1600年頃)です。その遺跡が初めて確認されたのが平度市の東岳石村で、現在は道端にポツンと記念碑が建っています。近年の遺伝子解析によると、岳石文化の人骨は日本の九州地域の弥生文化の人骨と共通性が見られるとのこと。日本に農耕文化を伝えたのが朝鮮半島人ではなく山東省由来の大陸人である可能性が出てきました。付近の高台から、三方を岩山に囲まれたこの広々とした平地を眺め、「この一帯が日本の米文化の原点と縁があるかも」などと考えると、実に感慨深いものがあります。
[即墨故城遺址]
約2000年前の斉の時代、平度市の大朱毛村一帯に、刀幣(刀の形をした貨幣)の生産地として有名な街「即墨城」がありました。現在は石碑と城壁(土塁)の一部が残っています。紀元前279年、燕の猛攻撃を受け斉は滅亡寸前に追い込まれました。その時、この地の田単将軍が奇策「火牛陣」(角に剣、尾に松明をつけた1000頭以上の牛を使った夜討ち) により一気に形勢逆転し、母国のピンチを救ったという逸話が残されています。実は同様の戦術は日本でも1183年、木曾義仲が平家の大軍を破った倶利伽羅峠の戦いでも用いられています。ひょっとして木曾義仲はこの逸話を知っていたのかもしれませんね。
[天柱山魏碑]
標高280メートルの天柱山の中腹に、北魏時代にこの地の長官を務め書家でもあった鄭道昭が残した碑が残っています。後の楷書体の形成に影響を与えたとされる鄭道昭の作として、日本の書道家の間でも広く知られています。山の麓にある施設には、これら日本からの訪問団の写真などが複数掲示されています。山腹の4か所の碑に達するには急な石段を登る必要があり大変ですが、周りの絶景が疲れを癒してくれます。1500年もの昔、鄭道昭はどうやってこのような危険な場所に文字を残したのか、興味をそそられます。
当館では今後も、山東省各地に点在する、日本との関連性を感じさせてくれる痕跡を探し歩き、皆さんとも共有していきたいと思います。
[東岳石遺址]
山東省の石器時代は5段階に分類できますが、その最終段階にあたる岳石文化(紀元前1900年~前1600年頃)です。その遺跡が初めて確認されたのが平度市の東岳石村で、現在は道端にポツンと記念碑が建っています。近年の遺伝子解析によると、岳石文化の人骨は日本の九州地域の弥生文化の人骨と共通性が見られるとのこと。日本に農耕文化を伝えたのが朝鮮半島人ではなく山東省由来の大陸人である可能性が出てきました。付近の高台から、三方を岩山に囲まれたこの広々とした平地を眺め、「この一帯が日本の米文化の原点と縁があるかも」などと考えると、実に感慨深いものがあります。
[即墨故城遺址]
約2000年前の斉の時代、平度市の大朱毛村一帯に、刀幣(刀の形をした貨幣)の生産地として有名な街「即墨城」がありました。現在は石碑と城壁(土塁)の一部が残っています。紀元前279年、燕の猛攻撃を受け斉は滅亡寸前に追い込まれました。その時、この地の田単将軍が奇策「火牛陣」(角に剣、尾に松明をつけた1000頭以上の牛を使った夜討ち) により一気に形勢逆転し、母国のピンチを救ったという逸話が残されています。実は同様の戦術は日本でも1183年、木曾義仲が平家の大軍を破った倶利伽羅峠の戦いでも用いられています。ひょっとして木曾義仲はこの逸話を知っていたのかもしれませんね。
[天柱山魏碑]
標高280メートルの天柱山の中腹に、北魏時代にこの地の長官を務め書家でもあった鄭道昭が残した碑が残っています。後の楷書体の形成に影響を与えたとされる鄭道昭の作として、日本の書道家の間でも広く知られています。山の麓にある施設には、これら日本からの訪問団の写真などが複数掲示されています。山腹の4か所の碑に達するには急な石段を登る必要があり大変ですが、周りの絶景が疲れを癒してくれます。1500年もの昔、鄭道昭はどうやってこのような危険な場所に文字を残したのか、興味をそそられます。
当館では今後も、山東省各地に点在する、日本との関連性を感じさせてくれる痕跡を探し歩き、皆さんとも共有していきたいと思います。
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